【奇跡の物語】

耐熱ペットボトル湯たんぽ発祥の地と「希望りんご」の因縁。

私たち【この町の・花の街・作戦】実行委員会が震災以来継続している活動には、二つの大きな柱があります。

一つは「希望りんご」植樹活動、そしてもう一つが、この【耐熱ペットボトル湯たんぽ】の考案・啓蒙・普及活動です。

これらの活動は深く結びついており、特に「希望りんご」の記念すべき100ヶ所目の植樹地が芦屋市立精道小学校になった経緯は、湯たんぽの発祥物語と密接に関わっています。

「明るさ、温かさ、連帯」

絶望の中で生まれた希望の種。

阪神・淡路大震災直後、厳寒の芦屋市立小槌幼稚園避難所では、多くの被災者が身を寄せていました。

切実な要望は「湯たんぽ」でしたが、数十万人という被災者総数を考えると、従来の湯たんぽで対応するのは最初から【不可能な事】として諦められていました。

当時、私たちは避難所に焚き火用の薪を運んでいましたが、倒壊家屋というマキの山を横目にしながらも、お葬式の終わらない家の庭から【ベニヤ板一枚すら持ち出せない】という厳しい状況でした。

    『明るさ、温かさ、連帯』

 生きる希望の3条件はプロパンガスではできないことでした。

この避難所のリーダーは、自宅は倒壊を免れて暖かく眠れるにもかかわらず、被災者と同じ暖房のない体育館で寝泊まりし、【被災者の寒さを共有】しておられました。

そのリーダーは、訪れる全てのボランティアに湯たんぽの提供を懇願しました。

しかし、どの団体も対応することはできませんでした。

耐熱ペットボトルとの出会い!

ある日のことです。

『もう、湯たんぽは無理やなぁ』と諦めかけている2人の物憂げな目線の先にミネラルウォーターのごみの山が映りました。

突然です、私たちに電撃が走りました。

それが、【ペットボトルのゴミの山】が私たちに伝えてくれた、ヒラメキというメッセージでした。

急いで家に帰り、早速、実験に取り掛かりました。

麦茶でボトルを変形させた苦い経験があったので最初は40度から始めました。

それが、50度、60度と温度を上げていっても変形しません。

湯沸かし器がプシュ、プシュッと熱湯を吐き出しても変形しなかったのです。

そしてついにグラグラ煮えたぎるお湯に浸ける、虐待テストを行いました。

それでも、ボトルは全く変形しません。

この初体験は、震災の数年前に開発されていた【耐熱ペットボトル】という、未知との遭遇を偶然果たしていた結果だったのです。

ロータリークラブ仲間の朝日ビールの研究所に【耐熱ペットボトル】(ポリエチレン・テレフタレート、耐熱温度84℃)とその見分け方などを教えてもらいました。

こうして、【耐熱ペットボトルの見分け方】や湯たんぽに必須な【大量のお湯の湯せん確保法】をセットに、瞬く間に全国へ広がっていきました。


13年ぶりの再会が繋いだ絆!

「希望りんご」100ヶ所目の物語

そして、歴史は不思議な展開を見せます。


記念すべき100ヶ所目の【希望りんご】の植樹地が芦屋市立精道小学校になったのには理由がありました。

なんと、13年ぶりに再会した、あの小槌幼稚園避難所で【被災者と寒さを共有し、湯たんぽを一緒に開発したリーダー】こそが、偶然にも当時の新生・芦屋市立精道小学校の校長先生になっておられた春名片史先生だったからです。

この運命的な再会こそが、私たちの活動を特徴づける2つの柱が一本となり、100ヶ所目の植樹地が芦屋市立精道小学校に決定した奇跡的な要因なのです。

【補足マスコミ情報】


   耐熱ペットボトル湯たんぽを取り上げた1995年2月23日の読売新聞の報道


2004年11月17日の中越地震の毎日新聞の現地報告記➀


2004年11月10日、中越地震の大阪教育大学附属小学校の毎日新聞記事②


2004年12月3日の中越地震の新潟日報の現地記事



翌年2005年1月17日

大阪教育大学附属小・中学校『希望りんご』植樹読売新聞記事