ボランティアの目次
【災害トイレ】
奇跡のペットボトル・ウォッシュレット
奇跡のペットボトル両手洗い器
➀1995年1月17日
阪神・淡路大震災
奇跡の物語
耐熱ペットボトルの見分け方説明文
耐熱ペットボトルと非耐熱の違いの動画
阪神大震災から6年
希望2001集会の企画1
希望2001集会の企画2
希望2001集会の企画3
仮設住宅から恒久住宅ヘ引っ越しのお手伝い
【阪神大震災30年、『希望りんご』植樹116回目】2025年1月15日
②2004年10月23日
新潟中越地震
中越地震関連記事1
③2007年3月25日
能登沖地震
④2011年3月11日
東日本大震
⑤2016年4月14.16日
熊本地震
⑥2020年7月4日球磨川水害
⑦2024年1月1日
能登半島地震
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⑧30年間の【勝手ボランティア】がたどり着いた境地
⑨『希望りんご』植樹
since1997・3
『希望りんご』植樹地一覧
阪神・【淡路大震災30年『希望りんご』植樹116回目】2025年1月15(日
30年間の【勝手ボランティア】がたどり着いた境地:行動・発明・哲学
【後ろめたさ】から【感謝】へ
1.活動原点としての【後ろめたさ】
1995年1月17日早朝、阪神・淡路大震災が勃発しました。
布団の中で震えていた私たちの生命は助かり、身内に痛いところもなく、怪我もありませんでした。恐る恐る布団から抜け出し、まず身内の安否を尋ねたのは、誰もが取るごく普通の行動でした。
隣の家がぺしゃんこになっているのに母の家は無事だった。
なんやかんやで、結局身内の被害はゼロだったのです。
そうなると、周囲の被災者に対して、言いようのない「申し訳ない気持ち」が込み上げてきました。
結局、私を突き動かしたのは、あまりにも都合よく自分たちだけが助かったという【後ろめたさ】を、感謝へのエネルギーに転換したいという衝動でした。
「何か恩返しがしたい」──それが、私たちの活動の出発点でした。
2.活動の質を変えた【両手の握手】
その後の救援活動の中で、忘れられない出来事がありました。
私が「頑張って下さい!」と差し出した片手を、ある被災者が「一緒に頑張りましょうと、両手で包みこんでくれたのです。その温もりを今でも鮮明に覚えています。私は知らない間に、片手で握手する傲慢な人間になっていたのです。
【3.批評を超越する継続の力】
私たちは【偽善者】と言われても、始めから善行などしていませんし、【売名行為】と言われても、30年間続けても無名のままで、成果も上げていません。
ただ、30年間も続けていると、毎日新聞の一面記事に紹介されたり、ラジオ局からの出演依頼など、考えられない奇跡も起こるようになりました。
しかし、奇跡は人間が起こすものです。
これからも、神様の「見えない手」に導かれた人間が次々に奇跡を起こして行くことでしょう。
その奇跡の原点は、けっして特別なことではありません。
それは日常の延長線上にあります。
【ボランティアは日常の延長】
ー勝手ボランティアの流儀ー
1.問題提起
【ボランティアと奉仕者の区別】
偉そうなことは言えませんが、人それぞれに得意な分野があります。
「資金のある人は寄付を」
「子どもの好きの人は遊び相手を」
「体力に自信のある若者は現場での肉体労働を」。
しかし、ここで一つ問いかけたいのは、【ボランティア】という言葉の使われ方です。
人から頼まれたり、公式に募集されたりして、【義務】や【責任】が伴う【無償労働行為】は、自発的な【ボランティア】と明確に区別して【奉仕者】と呼ぶべきではないでしょうか。
私たちは、この心優しい人たちに【ボランティア】という美名を着せ、無償の労働を都合よく提供させてはなりません。
募集側は、軍手やマスク、被災者と同じ程度のお弁当くらい提供する礼節をもって対応すべきだと考えます。
2.【勝手ボランティアの原点と哲学】
一方、私たちが活動の原点としたのは、募集されたボランティアなど一人もいなかった阪神・淡路大震災の当時です。
私たちは、誰にも頼まれず、勝手に活動する「勝手ボランティア」の流儀を貫いています。
それは、被災地にはミネラルウォーターの救援があるため、大量のペットボトルの空き容器が出ます。
私たちの最初の活動は、その2Lの耐熱ペットボトルとの出会いでした。
それで作った『耐熱性のペットボトル湯たんぽ』が、私たちの活動のメイン柱となったのです。
3.【現場で生まれる発想と工夫】
その後も、私たちの活動は「ペットボトルの可能性を探る」ことに繋がりました。
ペットボトルお尻洗い器(東日本大震災)
東日本大震災では500mlの飲料水ペットボトルを利用しました。
【その辺りにある小さなボトルに穴を一つ開けて完成!】 キャップ下のボトルネックに小さな穴を開けることで、『簡易お尻洗い器』が完成です、介護のシーンなどで重宝されました。
両手が洗える
ペットボトル手洗い器
(熊本地震で再び2Lのペットボトルを使用)
耐熱でなくても、底辺が四角いシッカリしたボトルを選びます(丸いと転がるため)。【これもその辺にあるボトルに穴を一つ開けて完成です!】
四隅の底辺の角から2cmほどの位置に小さな穴を一つ開け、ボトルに水を7〜8分目入れて台の上に立てます((残りの3点で立たせます)。キャップの開け閉めだけで水の制御ができる優れものです。
この『両手が洗える手洗い器』は、防災グッズのデモンストレーションで実演すると、終わった後に聴衆から拍手が起こるほどの人気者となりました。
4.【想像力こそがボランティアの原点】
耐熱ペットボトル湯たんぽも、お尻洗い器も、両手が洗える手洗い器も、世の中に存在しないときに、被災者から要請されることはありません。
私たちの活動は、相手の不便な状況を想像し、先回りして隠れたニーズに対応することです。
喜ばれれば、「勝手ボランティア」冥利に尽きます。
自分は暖かい所にいて、温かい食べ物が食べられる。
「あの人は寒いだろうな」「お腹を空かしているだろう。
理念4.【想像力こそがボランティアの原点】
耐熱ペットボトル湯たんぽも、お尻洗い器も、両手が洗える手洗い器も、世の中に存在しないときに、被災者から要請されることはありません。
私たちの活動は、相手の不便な状況を想像し、先回りして隠れたニーズに対応することです。
喜ばれれば、「勝手ボランティア」冥利に尽きます。
自分は暖かい所にいて、温かい食べ物が食べられる。
「あの人は寒いだろうな」「お腹を空かしているだろう。
偉業を達成するには、揺るがぬ信念が必要です。それが、我々が成果を出せる理由です。
災害現場に入る私たちのノウハウ
安全な【勝手ボランティア】の心得
1.【プロと個人の役割分担】
災害現場に入るといっても、無闇に現地に入っては、かえって現地の負担になってしまいます。
まず、正確な情報と、個人の役割分担が必要です。
各地の行政から派遣されたボランティアが主流となった現在では、一般の個人ボランティアが本来の任務を務めるのは並大抵のことではありません。
発災直後の人命に関わる期間は、現地に入らないのが原則です。
昨今では「ボランティア」とは、行政が募集するがれき撤去などの【無償肉体労働力提供者】を指すのが一般的です。
しかし、ここでは個人で、車で入る「勝手ボランティア」の一助となる心得を共有します。
2.情報収集の生命線【コンビニ電話作戦】
ボランティア活動を成功させるには、現地の正確な情報が生命線となります。
比較的早くに現地に入れた方々へのお願いです。
現地の車の燃料事情やコンビニの営業状況、トイレの利用可否など、生活インフラの情報をぜひ知らせてください。
コンビニが開いていてもトイレが使えないなら、トイレは持参しないといけません。
これらの情報は、マスコミや、先に現地に入った人たちから簡単に得られることは滅多にありません。
私たちの経験から得た最良の手段は、**【被災地から少し離れたコンビニへの電話作戦】**に尽きます。
現地の道路状況や燃料事情、トイレ事情などの情報は、現地のコンビニが一番よく知っているからです。
3.2024年能登半島地震に見る【距離と安全】
今回の能登半島地震を例にとると、同じ石川県でも、金沢から災害現場まで車で3時間もかかる距離では、普通の車で行ったら帰ってこられません。
現地入りしているボランティアの大半はキャンピングカーでした。
行政からの派遣ボランティアは倒壊を免れた旅館や公民館などに投宿していましたが、そこでも余震の危険性は免れられません。
では、比較的安全な場所はどこだと思いますか?
私たちが見つけたのは、日中はポカポカと太陽で暖められる被災者提供の農業用ビニールハウスでした。
倒壊の危険性が低く、一時的な休息場所として最適だったのです。
🍎🍎🍎🍎
ボランティアの終焉
募集されたボランティアなど1人もいなかった阪神・淡路大震災。
だから、ボランティア元年と言われた。
しかし、2004年の中越地震を経て、2007年の能登沖地震ではボランティアはいなくなった。
【志願兵】(ボランティア)が募集される】おかしなことになっていた。
言葉を大切にする、マスコミでさえ誰も疑問を持たない不思議な国になった。
今では『ボランティア』は肝心の【自発性】が欠如し、名前だけを利用した都合のいいタダで使える『肉体労働力の提供者』になってしまった。
🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎
いざ、被災現場の新潟へ!
中越地震では阪神大震災の被災者が、大量のペットボトル湯たんぽを救援しました。
しかし、飲料水市場のボトルの大半が【耐熱】から【非耐熱】に変わっていたため、現地で大変な混乱が起きました。
『ペットボトル湯たんぽの救援だって、笑わせるな!
所詮、都会のゴミを送りつけやがって!』
このブログが私たちに中越入りを決心させました。
『なんとかしたい』
その時、ヘルプを買ってでたのが、
翌2005年1月、震災10年の節目の『希望りんご』の植樹予定校だった、
大阪教育大学附属池田小・中学校でした。
同校の全面支援を受け、早期の中越入りは実現しました。
🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎
【耐熱】ペットボトル湯たんぽ
(since 1995)
耐熱ペットボトルの見分け方!🍎
必ず、キャップを外した飲み口が【乳白色】の耐熱ボトルを使うこと、飲み口が【透明】な非耐熱のボトルは必ず、ぬるま湯を使う】
今では、東京都や警視庁の防災ガイドブックにも記載される程、普及した「ペットボトル湯たんぽ」ですが、肝心の【耐熱】が欠落して普及してしまいました。
湯沸かし器のない、災害時での大量の熱湯の確保は、焚き火による【湯せん】しかありません。
非耐熱のボトルは沸騰までに変形して危険です。
🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎

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2025/1、
サンケイスポーツ
https://share.google/0dxgpfoGStgoKukdG
「希望りんご』植樹116
神戸製鋼ラグビー
七連覇時のキャプテン・往年の
名キッカー
細川隆弘さん
参加!
「ずっと何かをしたかった」

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『希望りんご』植樹地一欄の動画へ
追悼から希望へ
『希望2001』
長田区若松町、【神戸の壁跡】追悼集会は、仮設に住む、この年6歳になる張 有花ちゃんを主役に、青年画家をエスコート役にキャスト。コンセプトを【希望】へとシフトした。仮設住宅の2階のベランダには
ベニヤ板1枚に
「希望」
の文字をもう1枚に
「2001」
と書いて穴をあけ、裏から電飾球をはめ込みました。
壁のあった隣の建物【奄美会館】の壁をお借りし、3分の1の【神戸の壁】を電飾で復元しました。
JR線から見えた電飾看板!
当時の長田は焼け野原の影響で遮るものがなく、
JR神戸線からよく見えました。
主要マスコミの取材が、が、小泉首相が来ない東遊園地のメイン会場からから、この【神戸の壁跡地】の追悼会場にシフトされたのは、皆さまご存知の通りです。
余談ですが
当時の新聞に取り上げられた、この2枚のベニヤ板の電飾カンバン(現物)は、壊れてますが、保存されています。いずれ、披露の機会があれば、それを経て廃棄したいと考えています。
⬇️

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2001年1月
みんなでやった
引っ越し手伝い
ここ、長田区若松町・大若町の『仮設住宅』【住民が知らない間に、看板だけは市営住宅に変わっていたが…】は
『こうきゅうじゅうたく』
へと引っ越すことになった。
残念ながら【高級住宅】ではなく「仮設」の反対語らしい【恒久住宅】である。
私たちは、被災者の引っ越しを『カレーイベント』で手伝うことにした。
引っ越しだけでは楽しくない。
住民と協調し、カレー作りは住民の、資材関係は全て私たちの担当になった。アサヒビールからの差し入れも届いた。
仮設の被災住民が作ったカレーライスに、ボランティアが並ぶ、今までと真逆な光景が出現した。
引越屋さんのアルバイトの若者や、報道の方たちは戸惑い、『私たちはプロだから』と固辞されていた。
しかし、アルバイトの若者たちや報道陣も『同じ人間でしょ』との、被災者の声に納得し、ご近所からは小さな鍋を持った人も現れ、みんなで和気あいあいのカレーパーティーになった。
何処の棟もエレベーターホールは押し合い圧し合いの大混雑に、変わりはない。
しかし、ここでは、エレベーターの奪い合いなど起こらなかった。
寝たきりのお年寄りも、ベッドに寝た、そのままの状態で5〜6人で階段でマンションの3階に運ばれ、コタツの上にあったみかんまで、以前の部屋と同じように復元された。
いつの間にかエレベーターは重量物や、上階優先の暗黙のルールも生まれ、3〜4階へは、他社を問わず協力し合った。
記者たちは報道だけでなく、現場での肉体労働もみんなと一緒にしていた。
【そう、みんな同じ人間だから】だ。
当時のサンTVさんはボランティア募集ではなく、
『引っ越しの手伝いがあります。希望者は◯◯さんまで』』
とボランティアを集めてくれた。
昨今のように【ボランティア=志願兵】を募集するという表現はしなかった。
今はそれが当たり前、そんな矛盾に疑問さえ感じられない日本になった。
【自衛隊募集!】の看板に応募した人は【志願兵】てはないのだ。

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「オチが、ボランティアのために描いた絵」
私たちの活動を熟知しているオチが特別私たちのために、タタミ1枚くらいの大きな絵を描いてくれた。
『これをボランティアに使いなさい』
どう見てもボランティアとは結びつかない、どうすればいいのか?
未だに分からない。
【自分でお尻ェット】
ウォッシュレット
【多人数コタツ】
2024年能登半島地震
元旦に震災が起こって2月まで様子をみていた。
『渋滞で、復興の邪魔になるから行くな!』というのが大半のマスコミなどの意見だった。
しかし、私たちには別のノウハウがある。
今回のように、金沢から能登の現場まで【車で3時間】という特殊状況では、燃料補給が一番の問題。
その点、軽トラックは、金沢で満タンにして、20Lの携行缶1本持参すれば、まず、金沢から能登の往復は大丈夫だ。
私がいつも思うのは、現地入りを果たした報道や、ボランティアたちの報告は現地の被災状況や個別の活動報告に重点がおかれている。
今から現地入りを目指す被災地外の人に対する情報を見つけることができなかった。
発災から2カ月近く経っても、詳しい道路情報とか、現地での燃料補給や食料調達の可否などの情報が見つからない。
被被災地域内の中心地から離れたところのコンビニから、電話をかけ始める。
繋がらないところはアウト。繋がると、ミネラルウォーターなどの重くてかさばる救援物質が手に入るかを確認する。
この地域のインフラ復旧がわかるし、購入可能となれば、わざわざ、神戸から運ぶこともない。その地域の経済の微力貢献にもなる。
周りの反対を押し切って、珠洲市入りした。
なんということだろうか!
震災後、ときが止まったかのような被災地の姿。
【復興を見捨てられた街を行く】とはこのことだ!

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遊人村子どもサロン

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