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【題不詳】1958年

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【天才は隠された】

オチ・オサム、光と沈黙の50年


「私は【天才】ではないが、いい絵描きです」ーオチ・オサム​


この言葉は、彼の全生涯を貫く、静かなる挑戦状だった。

​19歳のオチが二科展に初出品した『花火のすきな子ども』と『マンボのすきな子ども』の2作品は2点とも、初出品にして初入選を果した。

​岡本太郎は「天才の出現」と激賞し、サム・フランシスやアペルらと共に、、その作品を第九室に招待展示した。

突如として現れた19歳の無名の画家を最初に【天才】と称したのは、他ならぬ「天才」画家、岡本太郎その人だった。

​それ以降、「天才」の称号は、オチ・オサムから離れることはなかった。

​しかし、次に述べる様々な理由があるとしても、なぜこれほどの画家が世界の美術史や美術市場から無縁の存在となったのか。

それは【不可思議】としか言いようがない。

​【沈黙の始まりー絶頂期での制作活動休止】

まず第一に、一世を風靡した絶頂期にオチ自らが、1962年の【出口なし】を残して制作活動を休止し、美術界の本流に背を向けたことだ。

​【米国でのブランク】

​そして1966年、桜井孝身を追って、あの有名な【歯ブラシ1本の渡米】事件へと繋がる。

サンフランシスコで絵を描き始めるも、『Beautiful but heavy』(美術評論家フランケンシュタイン談)と評され、当時の時流に乗ることもなかった。

【帰国後の苦悩と再起】

​ 帰国後も、自身の才能と世間の評価とのギャップに苦しみ、不幸にもアルコール依存症に陥った。

【消えた画家】としての世間のレッテルの中で、画家は密かに再起の道を歩んでいた。

​1995年の小倉そごうでの【オチ・オサム展】はオチ自身の提案であり、

1998年の福岡市美術館で開催した【狂熱の孤独、オチオサム&伊東寛治、内触覚的宇宙展】は、私とオチの画商契約であった【10年間は福岡で発表はしないこと】の10年が過ぎた、福岡での初発表となった。

​確かに中央美術界との疎遠はマイナスだったことは違いない。

しかし、真に大きな原因は別のところにあったと私は考える。


​【美術界の宿命の陰に隠された才能】


​美術界には、常に時代の先端を行く作家を世に紹介する務めがある。

その夥しい新しい才能の発掘の陰で、オチ・オサムという【天才】画家は、隠されていった。

​いつの時代も、真の才能は貧しく、そして隠されがちなものなのか?


【出口なし】


当時、オチが 出品した東京の国立美術館の謝礼が3000円だったという。

オチは余りの金額の低さと日本の美術行政の貧困さに絶望?し、サルトルの戯曲「出口なし」にタイトルを借りたオブジェ「出口なし」を制作、暫く制作活動から遠ざかった。

この代表作は、そのタイトルの「出口なし」やサルトルの戯曲の内容から、「絶望」のシンボルのように受け取られてきた。

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中原祐介

出口なし】をせ

戦後美術ベストテンに選出!

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【デイドリーム】

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オチを百貨店で扱うに当たっての桜井の忠告!

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オチ・オサム

球体断筆作品

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明滅する絵画 

【出現】

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消えない心の傷

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オチ・オサムの人気シリーズ【フクちゃん】は、一見ユーモラスですが、その背景には深い苦悩が隠されています。


私が画商になる時の唯一の条件。【今後10年間福岡で展覧会をしないこと】とも密接に関係します。


ある日、オチさんにこの作品への感想を『面白い!』と伝えたころ、オチは急に、表情を曇らせ、「あれはね、アル中時代の僕なんだよ」とその癒されない心の傷を明かされました。

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【オチ・オサム】

ピカソとモディリアニに並ぶ?

究極の球体絵画

【出現】で球体絵画に幕!

球体断筆宣言!

昔の60坪の手作り画廊の時代のことである。

画廊で絵を描いてい

た、画家の佐藤 龍さんが、素っ頓狂な声をあげた。

「オチさんの絵の球体が消える!」」

みんな慌てて、絵がかけられているところに集まった。

佐藤龍さんが説明する。確かに写真にある、白い矢印で示した球体は、近づくと消滅する。離れると2つの球は確かに見える。

「偶然だろう」と僕が言ったら、龍さんが声を荒げた。

「私は絵描きだ!」

「偶然は絶対にありえん!」

そこまで、龍ちゃんが言うんやったら「直接、聞いてみようか」ということになり電話をした。

「オチせんせい、先生の絵に離れたら球体が沢山見えるんやけど、近づいたら、その球が消えてしまうねん。これって、偶然やろ?」そしたら電話の向こうのオチさんが急に怒り出した。 

「そんなもん、凹んだところに球を描いてるんや、そりゃ、色々なことが起こるわい!

わしや、もう、球は描かん!」と言ってガチャンと電話を切られてしまった。

「それ、言ったとおりでしょうが、あんなの絶対に偶然じゃできませんよ」と龍ちゃん。

オチさんにしたら、「田村は、いつまで、この絵を描かせるつもりなんだ」と言った心境だったのだろう。お陰で在米時代から40年続いてきた球体絵画は終焉を迎えたことになる。2008年の秋のころだった。




 

【何かの間違い?】

にしても、

朝日新聞は預言書かもね!


ピカソとモジリアニに挟まれて 『オチ・オサム』の名前が!

ある日、当時の福岡市美術館の学芸員の黒田雷児さんが、1991年3月4日の朝日新聞の夕刊を持って、オチのところに駆け込んできた。

『オチさん、あなた、いつから、ピカソとモジリアニに比肩する作家になったの?』

『近くにいるから、分からないのだろうか?』と

頭を抱え込んでいたと言う。

まあ、何かの間違いに違いないが、それにしても、神さまの悪戯も粋なはからいをするものだ。

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「つまるところ、凸も凹も、同じ価値なんですね」

  オチ・オサムの言葉

1995年4月

小倉そごうで発表した

逆遠近錯視球体絵画

この作品は、取材のNHKのカメラマンを困らせた。近づこうが離れようが球体に見えて、凹んでいるのが伝えられない!

しかし、さすがは天下のNHKだ!ライトを横から当てて、点滅を繰り返した。

点灯している時は球体は陰によって黒くなり、凹んでいるのがわかり、横からのライトを消すとかカラフルな球体が蘇った。

桜井孝身の忠告!

『天才と〇〇は
紙一重』

オチの個展を初めてデパートで開催しようと言うときのことだ

自分たちの画廊だけなら少々ハメを外してもいいが、
デパートで扱うとなると、そうはいかない。

デパート側 に理解されない事をやらかすと、信用は一瞬に吹き飛び、取引停止ということにもなりかねない。

桜井が私にこう忠告したのだ。

「田村シェンシェイ、オチを扱ってくれるのは有り難いけど、

天才と〇〇は紙一重と言うじゃろ、何しろ、オチは生出演のテレビに向かって絵の具をぶつけようとした人じゃけんな、注意せないけんよ!」

桜井の忠告には説得力があった。

早速、オチに確かめることにした。

「先生!カメラに絵の具をぶつけようとした話、桜井さんから聞いたけど、あれって、ホンマかいな? 」
「デパートで似たようなことされたら、僕、終わってまうで」

「田村さん、それは誤解ですよ!

あの時代はまだ、日本の美術界に「パフォーマンス」や

「ハプニング」という美術用語がなかったんです。

僕は、始めから、カメラに絵の具をぶつけるつもりなんか、 無かったんですよ。

収録のあと、みんなと銭湯に行ったら、『なんで前もって打ち合わせをしてくれんかった』と、みんなに責められたけど。

先に打ち合わせなんかしていたら、みんなヘタな芝居をして、視聴者にバレてますよ。

だから何も言わずにやったんです」

「う〜ん、そうかなぁ、何か、信用でけんなあ」

「田村さん、チョット考えてみたら分かりますよ。

絵の具をカメラにかけるつもりなら、わざわざ〝よいしょ〟ってバケツを引いたりしません。

本当にかけるつもりなら、そのまま、後ろに引かずにヒョイッとかければいい。

誰も止めれんでしょう?」

そして、オチは続けた。

『私は桜井や菊畑に止めさせるために、わざわざ、〝よいしょ〟とバケツを後ろに引いたんです。

そしたら、案の定、みんな慌てふためいて飛び出してきたんです。 
ここからは、私もどうなるか予想できなかった。

とにかくバケツを振り回して暴れただけですよ。
みんなで揉み合って、みんなが絵の具だらけになった。 

結果的に思ったような、迫真の映像がお茶の間に届いたはずですよ」

これは同じ変人でも、完璧に桜井よりオチの言い分に分があった。

今、こんな映像が残っていれば、見てみたいものだ。

福岡のNHKさん!残っていませんかね?

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初めてみた、

オチの奇行!

それは、長崎の浜屋百貨店での初めての【オチ・オサム展】のときだ。

飾り付けが終わって、、浜屋の若い社員たちと食事に行った。

宴が始まって間もない頃、突然、前に座っているメンバーが奇声をあげた。

「オチ先生!生の肉を食べてる! 」

みんなの視線が一斉に

オチに向かった。

何とそこには、すき焼きの肉を生で喰ってるオチさんがいた。

「先生、そんな生の肉を食べたらアカン!大事な
先生を順ちゃん(奥さま)から預かってきてるんや。

腹いたでも起こされたら大変や!

するとオチさんが言った。

「何を言ってるんですか?あなたは素人でしょ、私はサンフランシスコで長いことコックのバイトをしてたんですよ。

毎日、毎日、肉を見てきました。だから、生で食べれる肉か、どうかくらい、ひと目でわかるんですよ」

こっちは、目に見えん細菌のことを心配してるんや!と思ったが、そんな野暮な正論は引っ込め。この奇行を認めることにした。

こんな風に、私はいつもやり込められてきた。

その場にいた人はみんなオチのファンになった。

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オチさん、持ち金の全額を寄付!


1987年、大阪市住之江区平林のウォーターフロントにあった画廊 【ラ・ルーシュ】は、グリーン・アートになり、何度目かの【オチ・オサム展】のときだった。


オープニングパーティーの参加者にシャンソン歌手で大阪北新地の【のらくろ】のママ、村山清美さんがいた。

シャンソンの合間に自立平和」という障害者のレストランをオープンしたことや、その苦労話などを披露していた。

するとオチが急に前に進み出て言った。

『私の絵を買ってくれる人がいました。画家は絵が売れた時が一番危険な時なんです。

私は貧乏絵描きですが、たちどころに食うに困るというほどではありません。

どうか、このお金を貴女の仕事に使ってください!』と、

展覧会のご祝儀などの持ち金の全額30万円を差し出した。

みんな驚いたし、清美さんは目頭を押さえた。 

パーティー後、若いスタッフのI君が『先生せめて30万円の内、10万円くらい残してたらよかったのに!』と言ってみんなを笑わせた。

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