最上義治
制作風景
小さな道化師
天空の詩
血の継承者
最上義治の絵に寄せて
田 村治典
彼の作品は絵の真髄ともいえる【絵の具による魂の定着】だ。
一見すると荒々し く、未完成にも
見える。
しかし、これこそ、こうとしか、なりようがない「魂の叫び」なのだ。
決して意図したものではないのだろう。
しかし、黒い絵で知られる彼が、色彩を武器に、極めて独自の道を歩み始めた。
元長崎県美術博物館学芸員で美術評論家の徳山 光氏は『ムンクを彷彿させる』と評した。
ムンクといえば【叫び】に代表される生と死、愛、そして不安という暗いテーマて知られる画家だ。
しかし、そのムンクは「狂気の時代」(1900〜1908年)のアルコール依存症による入退院を経て【希望の時代】へと転換した。
大勢の裸の人間がウジ虫のようによじ登る、救いのない【人間の山】(1900〜1908)には「希望」の光が登場する。
最上義治氏の絵も正に漆黒の絵から、明るく、しかし、重厚な絵へと変化した。
『無名』と言えどもこの画家は、コロナ禍以前は、日本の公募展の最高峰である白日会展の【無鑑査】だ。
賞を得たこともある。
【無鑑査】とは、審査なしで作品を展示できる、日本の美術界の本流が彼の才能を「プロ」として公式に認めていることを意味する。
最上家には 「8のつく代に偉人が出る」という言い伝えがあるという。
【最上】を最初に名乗ったのが第18代。
第28代が有名な戦国武将、最上義光。
38代には弓の名人がいるという。
しかし、現代に生きる義治氏は、刀や弓の代わりに、魂の闘いを託す絵筆という平和な武器をとった。
義治氏は先人に勝るとも劣らぬ才能の持ち主だ。
しかし、天才はいつの世も、貧しく、隠されているものなのだろうか。
最上家47代当主、最上公義氏(最上義光歴史館館長)【写真右】と長男の最上家48代現当主、最上義治氏【写真左】
最上義治 【略歴】
1953年大阪市に生れる。1950年近畿大学法学部卒
【花】
義治 画
Yoshiharu Mogami, the 48th family head of the Mogami clan. The clan was a prominent samurai family led by Yoshiaki Mogami during the Sengoku period.
最上義治
『天空の詩シリーズ』
【天空の希望教会】
最上義治作
画家 最上義治氏近影
『生い立ち』
【少年時代】
最上義治は、父、公義氏と母、弘子氏の間に生まれた。
幼い頃は、近江の大森にあった、入り口に家老の鳥越家がある広い敷地の祖父の家で、現在、最上義光歴史感に飾られている【義光の兜】※をかぶって遊んだという。
【公義氏の事業の失敗と離婚】
滋賀には草津に父、公義氏の家もあったが父の事業の失敗があって、近江の広大な本家を売却、父は実母の弘子氏と離婚した。
【父。公義氏の勢津子氏との再婚】
父の公義氏が勢津子氏と再婚した事で、継母に嫌われた少年義治氏は、父親とも同居できず、大阪の祖母(第46代最上義雄氏未亡人)に育てられることになった。
【父親、公義氏との面談】
私は、長崎の浜屋百貨店で【最上義治展】を開催するにあたり、最上家を語る以上、確認が必要になった。
そのため、義治氏と一緒に、京都の宮津にある公義氏の自宅を訪ね、公義・勢津子ご夫妻と面談した。
その時、公義氏は『最上家は歴史上、8の付く代に偉人を輩出している、私は48代の義治の画才に期待している』と語っておられた。
しかし、継母の勢津子氏は義治氏の暗い絵を好まず、風采が特別優れない無名の貧乏画家を露骨に毛嫌いしているようだった。
義治氏の不遇の原因は継母による家庭喪失など、筆舌に尽くしがたい幼少期にあるのは明らかだ。
【継母の陰謀】
その勢津子氏がとんでもないことを画策し始めた。
最上家とは一滴の血の繋がりもない、この継母の勢津子氏は、『次の48代は富裕な親戚筋から養子を取り、公義氏の長男の義治氏には継がせない』と言いだしたのだ。
【ラグビー界の大スター乗り出す】
歴史を変える』そんな無謀なことを、させなてはならない。
私たちは神戸製鋼ラグビー部が七連覇を果たした時の主将、細川隆弘氏が経営する、神戸のギャラリー 『ガイア』で【最上義治絵画展】を開催してもらうことにした。
細川氏はラグビーファンなら誰もが知っている往年の名キッカーである。
最上義治展を訪れた人たちがネット上に書き込みをするから、勢津子氏らの思惑には歯止めがかかり、計画は頓挫した。
少なくとも祖父(第46代最上義雄氏)の代までは、近江の大森に家老の鳥越家の家が入口にある広大な敷地と屋敷があり、草津には父、公義氏の家もあったのだから、それを全て、事業の失敗で失った公義氏の責任は大きい。
何よりも勢津子氏は息子の義治氏の幼少期を家庭に同居させず、義母(最上家第46代義雄氏の未亡人、勢津子氏にとっての義母)に育てさせ、その義母である未亡人まで虐めるなど、親戚中の爪弾き者だった。
晩年の公義氏はこの勢津子氏との再婚を後悔する胸の内を電話で義治くんに伝えてはいたようだが、自分の代で全財産をゼロにし、義治くんに何も残せなかった、『責任』を悔いていたのだろうか。
こうして、最上家の文化的財産は山形市に全て寄贈されてしまった。
【形ある財産を全て失った48代義治氏、しかし…】
最上家の文化的財産が公共財産になったこと自体はいい事だろう。
しかし、残された、義治氏は、たまったものではない。
同じではないが、統一教会へ高額寄付した母親の息子の事件が世間を騒がせている。
代々、最上家に引き継がれてきた、次代に引き継ぐべき文化遺産を、48代義治氏に相談することもなく、寄贈すること自体が大きな問題だ。
お金に換算できない最上家の全財産の寄贈を受け、それを、郷土の誇りとして、観光資源に利用するのなら、関係機関は第48代義治氏の処遇を少しくらいは考えてもいいのではないのか?
公義氏が最上義光歴史館の(名誉)館長の職にあった前例もある。
自己中で見栄っ張りの継母が公義氏の死後まで、人のいい義治氏を騙して相続放棄をさせたように、第48代現当主をないがしろにしてはいけない。
現在の義治氏は、耳も不自由だし、車椅子の貧乏画家だが、別に最上家にしがみついてはいない。
純粋に貧乏絵描きを楽しんでいる。
現在とは相続制度が違ったが、昔はその家督は、そっくり、次代の当主が継承したものだ。
つまり、その家督そのものが、実際の正当な家系がどうか、とは別に、当主の当主たる証てもあった。
義治氏に対し、勢津子氏の立場は『公義氏の後妻の未亡人』という、タダそれだけのこと。歴史的な最上家とは何の血も、ゆかりもない。
最上家の48代現当主は歴史上、義治氏で、世が世なら、勢津子氏は謀叛の罪で打首ものだったろう。
この、継母(ら)の悪企みで、義治氏は受け継ぐべき財産だけでなく、精神的な誇りまで奪われてしまった。
全財産は山形市に寄贈されてしまった。
しかし、改易のため明治までの長期間、山形での権力闘争から無縁で過ごせたお陰で、その体内には芸術に秀でた本流の血液が受け継がれている。
【キオスク】50F
白日会展出展作品
最上義治